孝明天皇と家茂

不審な死

 

 

◇孝明天皇は毒殺されたのか?◇

暗殺されなければならなかった必然性はあったのかどうか?

朝廷は、江戸時代265年間を通じて、幕府から年額三万二百六十石の禁裏料を与えられるばかりの、政治的には飾り物同然の境遇でした。その状態が次第に改まり、幕府でさえその意向を無視できないほどに政治的権限を回復しつつあったのが、孝明天皇の治政でありました。

その原因の一つは、政府に見切りをつけた尊攘派が、幕府と対抗するため、
朝廷権威を担ぎ出した
ことにあります。

幕府権力の衰退が、朝廷権威を浮上 させたこと。

もう一つの原因は、黒船騒ぎです。

wikipedia に載っている孝明天皇

いつ入れ替えたのだろう?

明らかに、入れ替わった
明治天皇にそっくり。

これでは、天皇は偽物だと、
白状している様なものですね。

思わず笑ってします。

 

 ※右の本物の肖像画は、
     泉涌寺所蔵

    泉涌寺は、北朝の菩提
    寺です。

    因みに、南朝の菩提寺は、妙光寺(京都)

 ※天皇家は江戸時代までは、仏教徒でした。

 

孝明天皇は元来、生理的と言っても差し支えないくらい、徹底した外国人嫌いでありました。

「朕が治世におよびて通商を外夷に許すの俑(よう)を作らば(悪例をひらけば)信を国民に失し、恥を後世に遺し、神官ならびに列聖に対して一身を置くに処なし」

「開港は之を許容すべからず、洋夷若し強要せば、千戈(戦い)また敢へて辞せざるべし」とは、
いずれも孝明天皇の洋夷観を吐露した言葉です。

鎖国制度はもともと江戸幕府によってはじめられたものですから、天皇の立場としてはそういきりたつ筋合いはないのですけど、ともかくも幕府が勅許を得ないでアメリカや諸外国と通商条約に調印した折などは、

「時勢此処に至るは朕が徳の及ばざる所なり」といって、
譲位しょうとしたほどに、天皇の洋夷嫌いは激越だった。それゆえ天皇は、異国船の渡来にことのほか敏感で、践祚した年の8月、幕府に対して早速、海防を更に厳にするように沙汰を下した。

これに対して時の京都所司代酒井忠義は、現状を奏上し、以後外交上の重要問題は、天皇がまず幕府に勅を下し、幕府また謹んで奏上奏答するという慣習が出来上がっていったのです。

この様なことはかって幕府・朝廷間になかったことであり、すなわち天皇の政治的発言力、影響力は、実質的にこの慣習を突破口として拡大されることになったのです。

外交問題に限ってとはいえ、朝廷の意向を無視できなくなったと言うこの力関係が出来上がったのです。そして、更に政略結婚で将軍家に異母妹の和宮を公武融和実現のため、降嫁させたのです。

しかし、天皇のような公武融和・合体路線は、幕府打倒を志している尊攘派にとっては、面白くない、むしろ、邪魔でさえある。

こうして飾り物同然の境遇を脱し、国政に影響を及ぼすことができる地位に浮上した天皇は、少なくとも暗殺の対象とされるべき条件が出来たのです。

この倒幕派の勃興が著しい、このような時期に、孝明天皇は急死したのです。

 

◎『孝明天皇紀』『中山忠能日記』より経過を抜粋

慶応2年12月11日、風に似た症状を発した。

その症状は12日、13日と悪化し、食欲なくうわごと続く、14日、内々で疱瘡との診断が下った、15日、手に二つの吹き出物出る。17日、正式に疱瘡と診断され、この診断には間違いなかったらしい。18日、吹き出物が盛んに出、19日、水泡が脹れて膿をもつ、この日から大小便が通じ、少量ながら食事が摂れるようになった、

21日、膿が出はじめ、23日にはほぼ出尽くして、24日、乾燥はさらに進み、食欲旺で・・・順調に回復していった。ところが、全快間近いとみられた24日の夜に入って、病状は急変し、ふたたび熱があがったのみか、嘔吐・下痢が激しくなった。

医師団は、内伏していた余毒が発したものと診て、解毒のための薬を調合して進めた。だが、薬効なく、天皇は翌25日夜、不帰の客になってしまった。

『中山忠能日記』によれば、その最期は「九穴より脱血」という悲惨な状態だったという。 これが疱瘡のせいだとすれば不可解な死に方ですし、むしろ嘔吐・下痢といい、九穴からの脱血といい、毒殺死の特徴を備えています。

天皇の死は、宮中に疑心暗鬼をまき起していたようです・・・

『中山忠能日記』の翌年1月4日
老女浜浦の手紙より

「疱瘡のために崩御との発表がありましたが、実は悪瘡発生の毒を飲まされていたのが原因とのことです。その証拠に、お上の御容体は、御内の者もまったく伺っておりませんでした。たとえこれが、取るに足らぬ雑説であったとしましても、今後どのような陰計が行われるかもはかり知れず、どうか御油断なされぬよう・・・」

この陰計を企てた、一番有力な容疑者と擬されているのは、岩倉具視ですが真実は藪の中。

 

※日本に駐在中のイギリス外交官アーネスト・サトウは「帝の崩御ははじめ痘瘡(天然痘)と聞いたが、のち内幕に詳しいある日本人から実は毒殺だったと知らされて、それを信じるようになった」という意味合いのことを、日記の中に書き留めています。

 

◇家茂も毒殺された?◇
(大阪城での出来事です)

『明治百年と日本人』山岡荘八は次のように述べています。

私が調べたところによると、
(家茂が)息をひきとるとき、御小姓組番頭の蜷川相模守(元蜷川京都府知事の祖父にあたる)が、ただ独りで側に付き添っていた 。この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて、病気で亡くなったことになっているが、将軍は亡くなった7月20日の4~5日くらい前に、風邪気味で臥せっていた。

そこへ『宮中から差し回された』といって医者が尋ねてきた。名前ははっきりしていない。
孝明天皇と将軍とは和宮が降嫁されてから非常に仲が良かったから、何も疑わずに、この医者を居間へ通した。脈を診て、「いや、たいしたことはありません。ではこの薬を召し上がって下さい」
といって薬を調合して置いて帰った。

それを飲んで、それから3~4日目に亡くなっているわけである。
将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引き取った。この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるが、この人がずっと遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。そしてこの死を発表したのは、1ヶ月経った8月20日になってからだ。

この時、江戸城定番(城代家老の次席)は渡辺丹後守章綱(伯太藩主/一万三千石)であったが、その嫡子の宮崎鉄雄氏によれば、宮中から医者を案内してきたのは長州藩の品川弥二郎で、城中に手引きしたのは定番の下役某であったという。       引用了

                                         

※御小姓組番頭の蜷川相模守の手記にあります。
※長州藩の品川弥二郎は、「フルベッキ写真」の中に写っています。多分本人。
家茂暗殺はこの同盟計画の一環だったのでは?
『宮中から差し回された』と言った、これは方便である可能性がありますね。

 

◇現代の科学的検証から・・・専門家の見解◇

孝明天皇

家茂は日常的に水銀系の毒物が与えらていた可能性が高い。
江戸後期になってくると、将軍の寿命が短くなっています。

右の写真はyoutubeで公開されていたものです。
31本中30本が腐食していたそうです。

虫歯とか、乳母が塗っていた白粉が原因とかでは説明がつきません。永久歯ですからね。

 

天璋院にも勝海舟にも、慶喜にも疑われる動機はありましたが、犯人である確証はありません。

 

 

 

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