徳川幕府末期

黒船の来航

 

 

ペリーが来航した時の、幕府の老中首座は阿部正弘です。最初の浦賀訪問を受けて、彼は オランダ商館からの情報で世界の情勢をよく理解していましたから、海防の必要性から、いち早く大船禁令を解きました。*1⇒⇒

正弘は書状を諸大名に廻し、吉原の店主にまで意見を聞いているのですから(意見書が残っています)家康の作った制度は何処へやらです。

薩摩藩は外様大名でしたね。。。天皇も公家も政治に口を出しています。。。

それに、ペリーが持って来たのは、大統領からの手紙だけではありませんでした。

→ぺりーに教えられた白旗の意味

大老・井伊直弼がアメリカとの通商条約締結を受け、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々に同様の条約を締結しましたが、孝明天皇は、勅許を得ずに条約を結ぶとこれを”五蛮条約”と云って激しく罵っています。

条約破棄を強く迫る天皇の激しい主張。両立不可能な命題です。天皇はあくまでも幕府の力による鎖国維持を望んでいました。

天皇や攘夷派が何を言おうと、開国せざるを得なかったんですね。。。

幕府は権力を回復させるためにも

攘夷を強く主張する孝明天皇の朝廷勢力との融和の為にも、「公武合体」の道を探っていきます。
そこで考え出されたのが、将軍家茂と孝明天皇の妹和宮の婚姻です。
その行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上りました。この大行列は幕府の威信を大衆に見せつける為でもありました。しかし⇒⇒

婚姻の挨拶に家茂が上洛してきたとき、天皇は攘夷の勅命を下し、幕府に攘夷決行を約束させてしまいます。

攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮にも行幸している。この頃には、天皇も段々と事の重大さに気付き始めたようですが、朝廷の権威は失墜し長州急進派の藩士や、公卿の三条実美らに、もはや操られるような状況になっていたようです。⇒⇒

      

天皇の意向に沿った攘夷を率先して進めたのが長州でした。
天皇と約束の攘夷決行の1863年6月、アメリカの商戦に砲撃を加えたのです。

しかし、勝てる筈はありませんね。長州の損害は甚大でしたが、アメリカ側も損害を受けていますが、この時、本国では南北戦争の真っ最中でした。そうでなければ、こんな程度ではすまなかったでしょうね。

翌月、7月2日には今度は薩摩藩が英艦7隻を敵として戦って撃退しましたが、しかし、再挙して攻めてくるとの知らせを聞いたので、幕府からお金を借り、英国が請求した慰謝料を支払い落着させました。

いかにとんでもないことが起こったかが判りましょう。幕府の権威も益々失墜していきました。
→幕府支配体制の破綻と共に訪れた大暗殺時代⇒準備中

 

次第に尊王攘夷の声が高まる中で

日米和親条約に基づきタウンゼント・ハリスが浦賀に赴任したのが1856年8月。 それから約2年にわたる交渉を経て、日米修好通商条約が結ばれました。

(在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約 を結ばされ、
明治初期には条約改正が外交課題となっていた)

◎文久遣欧使節(第一回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)

江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土としていた王国)、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた。

文久元年(1862年)、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、ヨーロッパに派遣した最初の使節団。(福沢諭吉もメンバーの一人でした)

交渉の中心になったのは幕府全権は岩瀬忠震(ただなり)と井上清直でした。 日米修好通商条約で、ワシントンでの条約批准が規定 されたのです。
(第14条   開港は神奈川の横浜と長崎の下関)

そのアメリカのワシントンに向かう使節77名は「ポーハタン号」に乗船し、「咸臨丸」と共に品川を出港したのは1860年2月9日でした。ここには岩瀬・井上は一行には含まれていません。

   日本では、一行がサンフランシスコの入っていた頃には、大老井伊直弼(3月)が暗殺されていました。

遣米使節

一行はサンフランシスコ市長主催の歓迎会に招待されています。丁重に案内され、ありあまるほどの料理とシャンペンでもてなされています。一般市民の歓迎もそれは大変なものでした。

ホテルにて

日本の高い文化、騎士道精神の存在、科学技術への強い関心、日本がアジア諸国の中で特異な性格(外国では不思議な二人の王のこともそれなりに理解していました)の文明国であることは、

アーロン・パーマー*2の分析その他、歴史家や旅行家(ベイヤード・テイラー*3)の講演などで一般にも広まっていましたので、丁重に威厳のある歓迎がなされるべきだとの意見は、国民的コンセンサスになっていたのです。

歓迎に対して使節団のとった態度はアメリカ人の気持ちを裏切らず、高度に洗練された礼節の存在を感じさせるものだったそうです。両国ともこの時は大成功だったのです。

・・・・しかし、日本の使節団の心中はいかばかりだったか・・・・

 第二回遣欧使節(横浜鎖港談判団)
(1864年2月6日)34名で、フランス船で横浜港を出発。

インド洋を経てスエズに着き、鉄道でカイロに入り、アレキサンドリア港に出てイギリス船でマルセイユへ。3月13日パリに着き2か月滞在し、ナポレオン三世に謁見。下関海峡通航許可・輸入関税率引き下げ・横浜鎖港交渉断念を内容とするパリ約定に調印。

一行は鎖国攘夷策の交渉達成が不可能な事を知るとともに、開国・西洋文化の吸収・軍事力の強化などの必要性を痛感した。英・蘭・米などへの訪問を中止して無断で帰路に。

8月23日幕府に報告し、鎖港の不可、開国進取と富国強兵を進言した。翌日正使池田長発(ながおき)、福使河津祐郁(すけくに)、目付河田熙(ひろむ)らは厳罰に処せられた。

 

徳川幕府は国内では攘夷の狂気、排外主義が危険な程高まっている中でも、西洋列強から最新の科学と思想を導入する努力を続けました。

☆有為の若者を育てる為に留学生を各国に送り見聞を広めさせています。
1862年(文久2年)オランダ留学、14名
1865年(慶応元年)ロシア・ペテルスブルグ留学、6名
1866年(慶応2年)イギリス・ロンドン留学、14名 (箕作奎吾もこのメンバーの一人)
1867年(慶応3年)フランス・パリ留学、9名

 

結局、列強の前には開国を認めざるを得ず、不平等の条約を結ばなければならなかった。 海を渡った若者たちの胸には、『今に見てろ』と、誓っていたに相違あるまい。

日本が軍国主義になっていったのも、解る気がしますね。

 

 

 

※1  後、明治に入り廃藩置県が行なわれると、防衛の為に造った船は必要なくなり、坂本龍馬や岩崎彌太郎など、それ等を借りたりして利用した。

※2  ロスチャイルドの代理人

※3  浦賀に来航したペリーの艦船に同乗して日本に訪れている。

 

 

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