幕末当時の海外情勢

日本は海外の情勢を把握していた

 

 

フランス、メキシコに宣戦(1838年)
アヘン戦争(~1842年)   清国とイギリスの間で南京条約
オランダ国王、幕府に書簡で開国を勧告。(1844年)(天保14年12月27日)
フランス軍艦、那覇に来航(1844年)(弘化元年3月11日)
アメリカ・清国間で望厦条約締結(1844年)
フランス・清国間で黄埔条約締結(1844年)
パリで革命が勃発し国王ルイ・フィリップが追放される(1848年革命)
露船メンチコフ号、下田来航(1852年)
クレミア戦争(1853~56年)
アロー号戦争(1857~60年)←アヘンの密輸船。
アメリカ南北戦争(1861年 - 1865年)

・・・・欧米は戦争続きです・・・・各国の船も日本沿岸まで来ています・・・・

 

フランスとイギリス ←この二国を日本はならず者国家と見ていました。

家光の鎖国以来、家斉の時代に至る150年間の間にスペイン、ポルトガル、オランダは相次いで衰え、これに代わってイギリス、フランス、ロシアの三国が強大になりました。

英国は印度を取って、南方から我が国に進もうとし、ロシアは北方から迫らん気勢を示した。 けれども、蘭学を勉強して西洋の事情に詳しい少数の者は、噴火山の上で夢を貪っているような我が国の前途に憂えた。

海防の急務であることを、第一に唱えたのが仙台の林子平(しへい)でした。

子平は世界の大勢を説いて、今ある危険を論じたのですが、幕府は不届き者として、子平が著書に用いていた版木を没収して焼き捨て、子平は蟄居(家にこもって謹慎)となり,翌、寛政5年不遇のうちに病死しました。

中東のオスマン帝国、インドのムガル帝国、清と云ったアジアの大帝国は、いずれも植民地化、あるいは半植民地化されてしまった。

清から茶を輸入していたイギリスは、膨大な銀の流出に悩んでいました。これを是正する為、インドのアヘンを清国に輸出し、三角貿易で貿易不均衡の問題を解決しようとした。

アヘン禁止を求めた清はイギリスと戦争になって敗れました。

これらの詳しい情報は、日本にも唐人やオランダ人など複数のルートから入って来ました。 もちろん、幕閣の実務官僚たちもこの中国の悲惨な結末を知っていました。隣国の情勢を偵察するのは、防衛する上で常識です。

ペリーが来航した嘉永6年は、丁度、南京が太平天国の乱に占領されたばかりの年です。 内戦がどんなに悲惨な結果を国家にもたらすかと云う教訓も他人ごとではなく受け止めていたでしょう。

イギリスとフランスが、アヘン戦争からアロー号戦争にかけて中国に掛りっきりだった事は中国の方が富も人口もはるかに多く、市場として魅力的だったせいもあるでしょう。

こうして、巨大なエネルギーを消費しているので、獰猛な植民地政策や軍事戦略の矛先を、日本まで向かわせるゆとりもなかったのが本当のところでしょう。

 

そこで、武力を使わない戦略に変えたのです。

「・・・・徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない」

この言葉は1866年4月26日、
イギリスのハモンド外務次官からイギリス駐日公使ハリー・バークスに宛てた通信の一節です。
遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』萩原延寿著

 

これは、影からコントロールする方針を明かしているも同じですね。

そして、
このイギリスもすでに、政府に対してお金を貸す『黒幕』が、政府の裏にいた事を念頭に見ていかないと、
判断を誤ります。

 

 

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