六人の和宮の謎を追って

検  証  編

 

 

◇ここに一人の女性の証言があります◇

和宮が縊死したという言い伝えのあると云う家、高田村(≒高田馬場)の豪農、   新倉家末裔の女性の証言。

和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代わりに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納まっているのは和宮様ではありません。

このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変わったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。

板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが、宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています。

有吉佐和子氏の替え玉説の根拠から『和宮様御留』のあとがきより

『高田村の新倉家ゆかりの人から替え玉説を聞いた』

 

証言の女性は『高田村の新倉家ゆかりの子孫』と、言っていますが、当時の高田村の名主に、新倉家は存在しませんでしたが、隣の雑司ヶ谷村には新倉家はありました。<1951年(昭和26)豊島区役所刊行『豊島区史』

新倉家は明治以降、急速に羽振りがよくなり、地続きの高田村の土地など手に入れて、大地主になり、土地の権力者になっていきました。御子孫が高田村と云っても決して変ではないですね。

新倉家の本家は雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の参道沿いにあったのですが、証言者の生まれた分家がのちの学習院キャンパス内、すなわち旧・高田村時代に買収していた、新倉家の土地(高田村高田)に屋敷をかまえて住んでいたとすれば、

「家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」といういい方も、ウソではない。
<1933年(昭和8)高田町教育会から出版された『高田町史』

 

黒船の来航以来、国を守る為幕府の方針も変わり、高田村や雑司ヶ谷村は徳川幕府の“天領”が多く、幕末から明治にかけては村の湧水流沿い、あるいは河川沿いの水車小屋で、

火薬の製造を委託されていたと思われます。幕末期、戊辰戦争用の薩長軍に必要な、火薬の製造・調達で薩摩の藩士がこの界隈の名主屋敷にこぞって出入りしても、決して不自然ではない状況だったのです。

時代もそんな昔ではないです。私事ですが、母のお祖母さんは長生きで、よく面倒を見て貰っていたそうです。そのお祖母さんから、自分の子供の頃、まだ刀を差してチョンマゲを結っている人がいたと、母は聞いています。

そのチョンマゲを結っていた世代が、和宮の生きた時代なのです。
私もこうして、現にその時代の話を母を通して聞いています。

どうです。そんなに昔の事ではないのです。それだけに、この証言は信憑性が高いと私は思います。

※情報は地元の情報発信しておられるこちらにお世話になりましたm(_ _)m

 

 

◇ここでもう一人の証人、八木清之助、翁は御子孫に日記を残されました(和宮の墓がある)◇

尋常ならざる経歴の持ち主ですです。

弘化4年(1846年)、千代川村拝田に生まれた清之助は、14歳で京都のある宮家に中間奉公することになったという。

そして翌文久元年(1861年)、泣く泣く関東に降嫁する和宮の供として江戸へ下っているのです。「小石川藩邸にて」と裏表紙に記してある。小石川藩邸というと、水戸藩の江戸屋敷に滞在していたのでしょうか。

さらに清之助は、いわゆる七卿落ちに際しても長州まで同行している。

実際、昭和7年11月27日にゆかりの京都洛北にある妙法院で、七卿西走70年記念の法要が行われた際、

「七卿落ち当時からの唯一の生存者」として八木清之助(当時88歳)と丹波から伴ってきた八木義一郎が出席したことが写真入りで当時の新聞に報じられているのです。

同志の扱いです。

禁門の変の折、長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允 )も身辺に危険が迫り、但馬出石に落ち延びたのですが、その手引きをしたのもこの清之助なのです。

※情報はこちらにお世話になりましたm(_ _)m

 

『京都所司代』とは、何をする役職だか、覚えていますか。

公家たちの監視役ですね。

京都の守護をしながら皇室や公家衆を監視し、京都に出入りする大名があったりすると、注意を払ったが、まもなく幕府は諸大名の京都に立ち入る事を禁じた。旅行の途中伏見に泊まる事さえ禁じた。

清之助は、この間の取り持ち役を果たしていたのではないでしょうか。例えば、薬売りとか、習字の筆とか硯とか紙とかの行商に成りすませば、武家の家にも公家の家にも入る事が出来ますね。

和宮墓

そして、仕えた宮家とは、天皇家ではないのか、和宮の共として江戸に下っている。

清之助は田中河内介の紹介で宮家の奉公人になるのですが、
この河内介は孝明天皇の子(睦仁=後の京都明治天皇)の養育係でした。*1

桂小五郎に命の危険が迫り、頼ったのが清之助、
明らかに同志です。

その清之助が、仕えていた天皇家の

和宮の顔を知らない筈はない。・・・立派なお墓です。(震災に遭う前の墓)

 

水戸藩は御三家の一つですが、藩の中でも皇室と血縁関係が深い。

又、裏では長州藩とも繋がり、薩摩とも繋がり、更には、徳川家のその後の待遇を見れば明らかな様に徳川とも上では繋がっていたのでしょう。馬鹿を見たのは下々の者ども。。。

※1  加治將一著 『幕末戦慄の絆』

 

 

今度は更に、時代背景を見ていきます。

 

 

◇垣間見えて来た幕末の江戸◇

江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されたのです。

勿論、薩摩藩も、八代藩主の重豪は、隠居してからだと思いますが、ずっと江戸の藩邸に住み、曾孫の島津斉彬と一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がったそうです。

江戸は豊富な湧水など水利に恵まれ、火薬生産に適していました。黒船以来、幕府は国防と国内の政情不安を背景に江戸に火薬製造所を作りました。

 

以下は目黒区のHPからです。

◎幕府の火薬製造>目黒火薬製造所

ペリーの来航以降、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、 江戸近郊の平和な農村にも影響を及ぼして来ました。

幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕*2の者七十余人といふ」

江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863年)9月の項の一節です。

 ※2  瑕とは:切る、打つ、突くなどして、皮膚や筋肉が裂けたり破れたり・・・つまり、事故で手足が飛ばされたりもしたと云う事です。その上に「怪」がついているので、怪物みたいな酷い顔になってしまった人もいたのでしょう。

お化けの話もこんなところから生まれたとの説があります。

 

◎幕末に設立  安政4年(1857年)

幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら=火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。

もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上(かみ)の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

 

◎明治期に発展

明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。

三田村が二度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて 三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ 目黒火薬製造所が完成した。

ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠(こうしょう)へ移管された。

日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。

 

こちらは、板橋区教育委員会HPからです。

◎加賀藩>板橋火薬製造所

幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造幣廠)となります・・・・

 

新宿区のHPを見て見ると

「火薬庫前」と云う地名がありました。

新宿区の町名>明治22年(1889年)、千駄ヶ谷村の一部(字大番町・西信濃町・甲賀町・池尻・霞岳・川向・火薬庫前)を再び四谷区へ編入・・・・

※新宿は、大東亜戦争の時、空襲で焼け野原になってしまいました。資料があまり残っていないのでしょう。

 

以上、ネット上から拾ってみました。

 

 

◇こちらは、京都から江戸までの降嫁道中の有り様の一部です◇

 

和宮墓

 幕府の威信をかけて、行列の安全を守るため、御輿の警衛に12藩をつけ、沿道の警固には29藩を動員しました。

和宮の行列は、本隊が千数百人で、警固の者や人足などを合わせると、その長さは50キロメートルにも達したと言われています。

和宮一行が宿泊された大湫宿の記録によれば動員人馬は延べ4日間で28,000人、819頭(一説には人足22,957人・馬720頭)。

通常の助郷では賄いきれず伊勢・紀州・越前まで助力を求め合計89ケ村に及びましたが、その多くで人馬の供出は完遂されませんでした。

これだけの大人数が移動するのですから、大混乱が生じ人手不足、逃亡、けが人、病人、死者までも出たのです。

 

内情は大混乱していたのです。それに和宮の駕籠は、『ダミーが3?駕籠』あったそうです。その駕籠が皆、
揃って本陣に入る筈ないですね。

 

この人数ですから、宿も無論、一つの村では賄えませんから広範囲に渡ったのです。
人口も現在の四分の一位*3で、人家もまばらです。

その中に、雑司ヶ谷村の名主、新倉家が入っていても、むしろ自然ではないですか。記録はないけれども口伝で伝わっている。(決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められていた。)

記録に『和宮の駕籠はどこそこに泊まって、ダミーの駕籠はどこそこに泊まった』なんて書くわけないですね。
それこそ笑い話です。

先にも書きましたが、そんなに古い話でもないのです。信憑性が高いです。

 

※3  wiki>現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。

 

 

◇『縊死した』(首を吊った)という問題◇

 

今回の縁談を和宮はとても嫌がっていたそうです。それはそうでしょう。6歳の時に有栖川熾仁親王と婚約して、一緒に遊んだりもした、楽しい思い出も沢山あったのではないかと察します。

江戸城に入れば、四六時中誰かに見守られると言うより、見張られている生活になります。
大奥の生活も、直属の密偵*3(清之助の様な者)等を通じても知っていたと思います。

心境として『一人になりたい』と、思った事でしょうし、それを和宮が望んだとしても、不思議ではないし、一人になれる最後のチャンス、周りもきっとその彼女の願いを許したでしょう。江戸まであと一歩の所まで来ていたのです。

倉の中には、樽だの、箱だの色々ゴタゴタ入っていたに相違ありません。

大声を出しても大丈夫な所に泊まりたいと云う、和宮の最後の願いを叶える為に、そんな場所がある新倉家が選ばれたのでしょう。

守り刀は倉に入る前に、周りから取り上げられていたと思います。それを条件に誰もいない多少声を出しても、外には聞えない、自分だけの最後の時間を作ったのです。

倉に入り一人になった時、彼女は身体を締め付けている帯を解いた・・・

そして、子供の様に、大声で泣いたり、叫んだかも。人生最後の叫びを。

帯を解けば着物は最低でも三本も腰紐を使っています。帯び上げ、帯締め、、紐なら身体に沢山付けています。

最後に、傍にあった荷物によじ登って横に通った木にその腰紐を巻き付けた・・・

母親(橋本経子、観行院)が、形見に髪を切り、それを、家茂の葬儀の際に棺に納めた。

死人も出る様なドサクサの中、八木清之助が、和宮を京都まで連れ帰った。

 ※3  部下、下から上がって来る情報とは別に、支配者直属の密偵。バーガミニ著の『天皇の陰謀』*4にも昭和天皇の直属の影で動く人たちが見え隠れしています。西郷隆盛も島津斉彬の『庭師』として働いていました。無論、それが仕事ではない事が分かりますね。清之助の仕事もこの様な問題が起きなければ世に現れる事などなかったのです。

 ※4  バーガミニ著『天皇の陰謀』は、日本人の書いた書物ではない為、焚書にならずに済んだのでしょう。しかし祖国アメリカに叩かれた様です。松崎元氏のご厚意によりこちらから読むことが出来ます⇒もくじ

 

 

和宮の乗っていた駕籠はそのまま、和宮を乗せて清之助と一緒に京都へ向かい、

新倉家の娘は用意された別の駕籠で板橋の本陣迄行き、出る時にはダミーが乗っていた和宮用の駕籠に乗って今度は『本物の和宮として』江戸入りしたのです。

証言者の云う『板橋本陣で入れ替わった』と云うのはこう言う事だったのではなかろうか。

従って

家茂と結婚したのもこの方。箱根で襲われたのも、この方。

遺骸は何処に葬られたか、それは岩倉具視が知っている。

徳川家の菩提寺に祭られている方は、どなたかも分からない嵌められた犠牲者。

『箱根で亡くなった和宮』は、何処かに埋葬されたままです。何れにしても『偽物』なのですから、仮埋葬をして、葬り直すなんて、する筈もないからです。

 

 

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