三菱王国の解剖

三菱の根幹を築いたのは『岩崎彌太郎』

岩崎彌太郎(帯刀を捨てて前垂掛けに)

『三井』の富も、その根底は政府の要人と結託し、巧みに利用する事によって出来上がったけれども・・・・

岩崎彌太郎

『三菱』に至ってはその手段手法が一層露骨で且つ、あくどいものがある。
『三菱』は最初から創業主『岩崎彌太郎』が、その商に当り、

しかも傲岸不遜・卓犖不羈、殆ど人間業とも思われぬ豪胆振りを思う存分発揮して、意のままに政府の財嚢を搾りあげ、私腹を太らせたところに特異の点がある。

云わば彼の富の大半は政府の台所から生まれ出た。

即ちその手段方法には非難を免れぬ或る物があるけれども、しかし世評の如何は別として一代で巨億の富を築き上げた彼の手腕力量は、凡ならずと云うべし。

即ち、『三菱』の『興隆史』は取りも直さず『彌太郎』の一代記です。『彌太郎』を除いて『三菱』の存在は無い。『彌乃助』『小彌太』は単に彼の築いた富の浮城の門番に過ぎない。

彌太郎は天保5年12月、土佐安藝郡(現・高知県の東部の安芸市)井口村の郷士『彌二郎』の長男として生まれた。

幼少時、同郷の儒者『小牧周平』の漢学塾に学んだが、持って生まれた剛情我慢の腕白癖は、やがて土地の庄屋『奥宮周二郎』に認められ、

安政元年3月、『奥宮』が当藩主『容堂公』に従って江戸に赴く時、従者に加えられて上京し、当時の有名な儒学者『安積艮斎(あづみこんさい)』の門に入った。

ところが、彼の父親は酒癖が善くなかった。彼の出京中、酒の上の不始末から郡代奉行に召し捕られ牢獄に投ぜられた。急を聞いて帰った『彌太郎』も、獄舎に繋がれ、六ヶ月目に父子は放免された。

こんな事情から、村の不評を招き、居たためられなくなって、一家を挙げて鴨田村(高知近在)に移住し、ここで父親は私塾を開き、『彌太郎』は、当時名高き『吉田東洋』に師事した。

同塾生に『後藤良輔』がいました。
『彌太郎』は、彼と《刎頚の交わり・・》を結んだ。
『後藤良輔』は、『吉田東洋』の甥で、後の『後藤象二郎』です。

 ⇒刎頚(ふんけい)の交わり・・中国の故事より、お互いにその友に為なれば、たとえ首 を切られても後悔はしないような仲。

  

ここで突然、師の『東洋』が、勤王党の忌諱(きい)に触れて暗殺されたのです。
  ⇒《忌諱・・嫌われる》

『田中光顕』の叔父の『那須信吾』に切られたのです・・・
『彌太郎』は、『井上佐一郎』と共に復習役に選ばれたのですが、
のちに、この『光顕』と"持ちつ持たれつ"の仲になります。

 

『彌太郎』は、師の仇を討つべく『良輔』を国元に残して、同志の『井上』と共に、勤王党の巣窟京都に向かったのですが、途中『井上』は刺客に襲われて死亡。彌太郎の身辺も危うくなったので、大阪に落ち延びました。

この大阪で、『彌太郎』は、商人等と親しくなり商売の面白さを学んだのです。

そうこうするうちに、慶応元年を迎え、時勢は急転、幕府の旗色が悪くなって行った。この機運を見てとった『彌太郎』は、これからは商人の時代だと強く実感したのです。

正月早々、平然と郷里に帰った『彌太郎』は、帯刀を捨てて『前垂掛け』の商人の姿に早代わりしていました。

 

 

後藤象二郎

◆『彌太郎』を語るには『後藤象二郎』は、忘れてはならない人物です

右の写真をご覧下さい。
これは『岩崎弥太郎伝』の中の巻頭に載っていた写真です。
ご丁寧にも、『三菱王国の産婆役』と、解説しています。

もうこれだけで、全てを物語り、他の説明はいらないですね。

この頃、『良輔』は、『象二郎』と名前を改めていて、藩の要職に就いていました。 彼は『彌太郎』の話を聞いて、資本に充てさせる目的で、金一百両を与えました。

『彌太郎』は、大阪に滞在中、同地の商人と親しくなっていたので、
この一百両で土佐の材木を買い仕入れて、大阪でこれを売り忽ち二百両の利益を得たのです。

この材木の買い付けは『象二郎』の世話で、藩の山方役『永山』が特別の便宜を計ってくれたお陰でした。

 

この庇護を見逃すわけにはいかない。

そう感じ取った『彌太郎』は、儲けの半分、一百両をこの『永山』に贈った。

役人を籠絡することが、
巨利を博する秘訣であることを、この一件で彼は体験したのです。

 

長崎出島

『彌太郎』は、まもなく、土佐藩の国産方(当時は一つの藩が一つの国でした)に挙用され、これと同時に『象二郎』は、長崎表にある『長崎商会』の支配人として赴任した。

この『長崎商会』とは土佐藩の商品を売りさばく為に創始したのです。 これは云うまでもなく、『象二郎』が『彌太郎』の策を入れて実現したものなのです。

『彌太郎』が、仕入れて『象二郎』が、販売したのですが、元々『象二郎』は『東洋』流の豪傑肌で、折角『彌太郎』が廻らした商策も水の泡。一向に利益が挙がらなかった。

遂に、『象二郎』は、呼び戻され、『彌太郎』が代わって長崎に赴いた。 そこからは、『長崎商会』の利益は相当に上がって行ったのですが、

『彌太郎』が、あるオランダ人の話に、朝鮮の東海に無人の島がある事を知り、これを手に入れて《大儲け》しようと、大それた夢を描いたのです。 藩主もこの『彌太郎』の空想に釣り込まれ、莫大は準備金を支出し、占領した上は『彌太郎』を島主にするという条件で探検に向かわせたのです。

ところが、実際に島に着いてみると、朝鮮人が沢山住んでいたのです。実は朝鮮領の鬱陵島だったのです。領主からは、厳く叱られ、藩に呼び戻されて留守居役と云う閑職に左遷させられてしまった。

 

 

◆兎角する内に、明治維新

兵乱も鎮定し、会津征伐の参謀として出陣した『板垣退助』は、『象二郎』と会合の上、藩の勢力を張る方法に付いて画策を凝らしていたのですが、何と云っても先立つものは資金。其の資金を得るには、『彌太郎』の手腕に頼るしかないと二人の意見が一致した。

『彌太郎』は、この話のから、藩の勢力が永続しない事を悟り、その上で利益を得るにはこの両人を利用しようと考えたのです。

 

 

◆人々の激しい怒りにあっても平気の平左の『彌太郎』

彼は、『金札』を発行する事を思いつきました。しかし、発行はしても通用しない恐れがあるので、三人は協議の上、この発行する太政官の紙幣と同格に交換する制度を定め、『大黒札』と言う木札を発行し、次に『鯨札』と云う紙幣を発行した。

この『鯨札』は鯨が泳いでいる構図だったのでそう命名したのです。

この頃は、元々藩札も出回っていたので藩の両替所に、この藩札と『鯨札』との交換を申し込む者も多くなって、
藩ではそれでなくとも財政が貧窮していたのですから、これに応じる事が出来ず、

これによって、『鯨札』の信用は落ちて、次第に下落して太政官紙幣との間に非常なる開きが出てしまった。

これに、眼を付けた利を見る事、隼の如き、『彌太郎』は、この形勢を見て、直ちに腹心を八方に派遣して、この太政官札10万円を買い入れ、その資金で150万円の『鯨札』を買占しめ、

その上で、これからは、両替は大阪の藩邸でするとの布告を出させて、この布告が出ると同時に、買い占めた『鯨札』を、一度に太政官紙幣に交換して、これだけで、十万円の資金は、忽ち9倍の90万円になった。

このいきさつを噂で聞いた、藩民は大いに激怒したのですが、彼は平気の平左でした。

 

 

◆三菱会社の誕生    密偵を懐柔して腹心となす 佐賀藩の船

当時土佐藩では、国産販売の機関を、大阪にも設け、『土佐商会』と名づけて商品を販売していました。

『彌太郎』はそこの指揮監督のため大阪に滞在していました。 『彌太郎』は、金が有るに任せて盛んに京阪の地を豪遊し、勤めて当時の諸名士、つまり有力者と交際して、金儲けの糸口を探っていたのです。

   ⇒『富田屋(とんだや)』に於いて名妓『お雄』の関係から『井上馨』と大格闘を演じ、『西郷南州(西郷隆盛)』の仲裁で和解したのも、この当時の話。

しかし、『彌太郎』の豪奢な生活は、当然、土佐藩主らの耳にも届きましたから、疑惑を持った彼等は様子を探らせる為に、凄腕と評判が高い『石川七助(七左右衛門)』を目付役として大阪に派遣しました。

『石川』は非常に苦労して『彌太郎』の犯行を調査しました。そして、怪しい幾多の事実を発見し証拠も掴んだのです。その事を知った『彌太郎』は、忽ち『石川』を抱き込んで、自分の唯一の配下にしてしまったのです。

 

『石川』は『三菱会社』の設立に当たって、最も貢献した功労者です。

昨日の犬を懐柔して自分に忠勤を抽んでさせたという一件でも
彼が唯の鼠ではないことがわかるでしょう。

 

 

◆背腹に敵を受けた三菱会社

お金も沢山出来て、藩の為に尽くすことに馬鹿らしさを感じて来たのです。 そして、いっそ独立してしまおうと決心して、官を辞してしまいました。

彼が官を辞するに当って、彼と去就を共にした者に、 『川田小一郎』『石川七助(七左右衛門)』『中川亀之助』それに『吉永亮吉』がいました。

『彌太郎』は彼らを幹部として、『九十九(つくも)商会』なるものを創立し、 土佐藩から『紅葉の賀』『夕顔』『鶴丸』の三帆走船を借り受けて、神戸大阪間の航運業に従事し、四国の物産を大阪方面に紹介することに勤めた。

・・・これが三菱会社の萌芽。

しかし、『九十九商会』の営業成績は思った程、振るわなかった。 これを何とかしたいと苦しみました。

ところで、ここに彼と『石川』以外には知られていなかった大枚七萬両という秘密の大金があった。

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それは彼の、
『坂本竜馬』が、伊州丸の償金として紀州家から取ったものを、『竜馬』の死後、 他人の名義で彼が保管して居たのです。

※『いろは丸事件』で、龍馬が紀州家から償金として受け取ったお金です。
龍馬はこのお金を『彌太郎』に預けて、後藤象二郎と共に京都へ向かいました。その京都の近江屋で龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺されたのです。未解決事件ですね。

 

『石川』が如何してこの秘密を知っていたのかというと、先にも書いた通り、藩の命を受けて内密に『彌太郎』の罪跡調査中に計らずも嗅ぎ付けたのです。 『石川』は敵としては恐ろしく、味方としては頼むべき有為の人材でした。

『石川』は彼の股肱となった今、大胆にもその金を会社の資金として流用を勧めた。

そして更に土佐藩の倉庫に在った樟脳四萬丁、時価にして十五、六萬両の品を『後藤象二郎』の斡旋で、自分の方へ送らせ、この二つで、忽ち二十二、三萬両の資金を作ることが出来た。

その後、まもなく、『九十九商会』は解散し、豊富なる資金と十余艘の汽船帆走船を有する 『三菱会社』を新たに創設した。(明治4年、『彌太郎』37歳)

 

 

佐賀藩の船

この時、すでに米国の『太平洋汽船会社』が既に貨客の吸収に勤めていた際でもあったので、同社の立場はとても不安定だったのです。

そこに又、半官半民の『郵便蒸気船会社』(三井の吹田久則と渋沢栄一の共同経営と云っても過言ではない)が創立された。

その会社は政府から年間六十萬両の補助を受け、三十余艘の汽船帆走船を所有した有力な会社でした。

これは『新生三菱』にとって非常なる打撃で、結局、 『郵便蒸気船会社』対『三菱』の喧嘩となって、

必然に運賃の大競争が起こり、これによって小さな規模の同業者の倒産が続出し、『三菱』もまた、殆ど致命的なまでになっていった。

そこで『彌太郎』は、 親友の『象二郎』が、政府の要職にいるのを幸いに、自分の苦境を話して厳談を頼んだ。

尚も、手を廻して『大久保利通』と『大隈重信』とを説き伏せ、逆手を使って『郵便蒸気船会社』の補助金を取り消させ、即ち、戦闘力を失わせ目茶苦茶に叩きのめしてしまったのは、どこまでも凄い腕前です。

 

また、台湾征討に際しては、海上運輸の役目を一手に引き受け、
これに依って数百萬円の巨利を獲得して、
『三菱』の基礎を大磐石の上に据えたのです。

 

 

◆海運界の実権掌握。鉱山事業に乗り出す

海運界の実権を確実に掌握し、巨富を築いた『彌太郎』は、今度は鉱山事業に手を出します。

始めに手に入れたのは、岡山県吹屋町の『吉岡鉱山』です。

同鉱山は大同2年(807年)に発見され、幕府の手に移ってから85年も採掘を継続した有望の金銀山で、『彌太郎』はこれを買い入れると、当時下級社員だった『近藤廉平』を所長に起用した。

※『岡山県大百科事典 上巻』より
吹屋村内の銅山の説明として「小泉にも銅山あれど爰ハ大同2年より始めて小泉よりも猶めでたき所なれば吹屋より出せしなるべし」

その後数代の所長を経て、明治初期には主として銅を産出していました。その頃の年産額は八、九十萬円と云われています。現在では廃鉱の跡が遺跡として残っているだけです。

これが、『三菱鉱山会社』の始めです。

 

事業の規模が拡大されると共に、人材養成の必要性を感じ、私財を投じて 『三菱商業学校』を設立し、嗣子『久彌』もここで教育を受けさせた。
その後、同校は『明治義塾』と改稱(かいしょう)して、『大石正巳』を塾長とし、寄宿舎も設けて『久彌』も入舎させた。

※福沢諭吉の慶應義塾の分校みたいなものでした。明治17年(1884年)廃校。

 

 

この前後に、『郵便汽船会社』が解散したのを知って、米国の『太平洋汽船会社』が、又、わが国の沿岸に現れ、『三菱』を向こうに廻して貨客争奪戦を演じたが、

この時の『三菱』は、最早過去の『三菱』ではなく、台湾征討によりて巨富を積み、所有船は増加し、加えて政府の保護を受けて、ことに相手が外国会社のことだし、驚くには値なかった。

『彌太郎』自ら陣頭に立って、指揮の采配を振り、遂に敵の会社の日本支店長を軟弱せしめ、彼の手を通じて、日本に於ける倉庫と船舶とを買い取り、手も足も出ない様にしてしまった。

その後も二、三の外国船会社が競争相手なった事がありますが、殆ど問題にならず、随分思い切った運賃値上げを行ったりして横暴の限りを尽くした。

 

 

◆反三菱!!民衆の怒りが沸騰!! 西南戦争

政府を利用する事と、戦争とで味を占めた『彌太郎』は、『石川』に旨を含めて、密かに九州に向かわせた。

これは当時『西郷南州』が徒党に担ぎ上げられ政府に反旗を翻す下心が見えたので、 その情勢を探らせる為でした。
『石川』は帰って南州挙兵の信憑性を報告した。

それが『彌太郎』の狙いどころでした。

彼は直ちに、政府の有力者を歴訪して風雲の急なるを告げ、これに対する戦闘準備の必要性を説いた。

時は、明治10年6月、賊軍の勢いは益々拡大しているのに対して、当時の政府の兵力は微弱にして勝敗を語るのさえ出来ない情けない情勢でした。

そこで政府は一も二も無く『三菱』の意見を受け入れ『三菱』に対して汽船購入費として、百五十萬円の補助を与え、『三菱』はこれに手元の七十六萬円を加えて外国船十艘を購入し、それに依って西南の役に際し、海上輸送の任務を完全に果たし得た事は云うまでもない。

けれども、兵乱鎮定後、その汽船は無償で自己の所有に移し、加えて運輸その他の総益金は優に一千萬円以上にも達し、全く濡れ手で粟の掴み取りです。(彌太郎43歳)

 

 

◆事業の拡大

『彌太郎』は、独裁主義で他人に意見を喜ばなかったのですが、
この頃、『豊川良平』の紹介で入社していた『荘田平五郎』が、建白書を提出したのです。

その内容は、為替・海上保険・倉庫業の三者兼営の利を説いたものでした。

彼はこの意見は直ちに聞き入れ実行しました。
これにより『三菱』は急激に貨物取り扱いの数量が増加し、且つ兼営に依って少なからざる利益を占め、事業の項目も一新しました。

 

 

◆アンチ三菱を目標とした三井の陰謀

これまで『三井』は『三菱』を眼中に措かなかったが、かくの如く急激に膨張する『三菱』の業績を見ては傍観している事も出来ず、密かに対抗策を講じた。

先ず越中の『藤井龍三』、新潟の『鍵富三作』、伊勢の『諸戸清六』等を説いて『風帆船会社』を設立させて、これに依って『三菱』をけん制しようとしたが、

『彌太郎』は之を聞いて、いち早く『諸戸』を籠絡して『三菱』の株を持たせて、この切崩策に依って、折角の企ても闇に葬られ、『三井』の陰謀も水泡に帰したのです。

 

 

◆政府の命令書   

『三菱』が急速に羽翼を伸ばした事は、『三井』その他の既成財閥の嫉妬を買ったのみではなく、
政府当局としても、また疑いの眼を以って眺めない訳にも行かなかった。

というのは、当時『三菱』は
政府の無利子無制限の借用金が、4百5万1740円あった外に、

郵便航路補助費として年額、25万円

沖縄県航路補助費として年額、1万5千円

商船学校補助費として年額、1万5千円

浦塩(ウラジオストック)定期航路補助費として年額、1万円

補助費は老朽船の淘汰・新船購入修繕等、所謂海運業助成に意味に於いて補給されているのですが、
事実は、『三菱』は、そのいづれも実行していず、それで年々4~5百万円の利益が出ていたのです。

ことに西南の役の如き非常時に於いては、1千万円以上の巨利を獲得している以上、 補助金は全然無意義であるばかりか、
前記(無利子無制限の借用金)、4百万円余りを、 返済をさせるのが妥当だと言う議論が政府部内にも起こった。

ここで政府は、
内情を探らせて調べた結果の事実に基づいて、『三菱』に命令書を突きつけるに至ったけれども、しかしそれは貸付金を一時、取り上げたり、補助金を取り消したりする程度で、手厳しいものではなかった。

つまり、政府が放った矢は、『彌太郎』の頭上を掠めたくらいで手ごたえが無かった。

 

 

◆『田口卯吉』の攻撃

田口卯吉

『彌太郎』にとって堪えたのは、当時「東京経済雑誌社」に載った、
『田口卯吉』が、一つ一つ数字的に秘密を暴きたて、
正面から痛撃を加えた事でした。

『田口』のこの『三菱』攻撃は意外なる反響を喚起して世論を沸騰させ、
流石の『彌太郎』も堪らなくなって、

当時『報知』の客員であった『犬養毅』を呼び寄せ『東海経済新報』
を発行させて、

保護貿易の立場からと極力自分の弁護に当らせた。

 

『犬養』はこの功績に依って、終身、月5百円の手当てを貰った。

 

 

 

◆日本郵船会社創立のいきさつ

他の閥族が『三菱』に対抗して、資本金6百万円の『共同運輸会社』を設立させて、その内の2百60万円は、
政府の出費で、『三菱』の海運業に対し威喝挑戦の挙に出た。

流石の『彌太郎』も腹背に敵を受け、
この時ばかりは血みどろの悪戦苦闘を続けたのであった。両者の競争の如何に熾烈を極めたかは、

神戸横浜間の三等客賃が5円50銭から、只の50銭に下げられた一事でも明らかである。
この接戦は2ヵ年の長きに渡っても尚平和の兆候は認められず、

17年夏に至ってそれまで頑健を誇っていた『彌太郎』も甚しく健康を損じ、間もなく癌腫を発して病の床に臥し、
医者からは死の宣告さえも下された。

しかし、剛腹な彼は死の刹那に至るまで、事業に対する執着心を失わなかった。

病床の中、尚『共同運輸』との対抗策を苦慮し、ついに『後藤象二郎』『岩村通俊』の斡旋で、殆ど彼の希望通りの有利なる条件で、『三菱会社』と『共同運輸会社』との合併談が成立した。

その条件の骨子は

『三菱』の出資に対し、年8朱の配当を政府が保証する事であった。これが『日本郵船会社』の創まりです。その結論から云うと『三菱』は『共同運輸』との対戦に於いてもまた、最後の勝利を占めた事になる。

『彌太郎』はこの勝利を確認して大往生を遂げた。
時に明治18年2月6日、享年52歳でした。

 

 

この様にして、『三菱』は益々大きく成って、財界の覇者となった。

『三菱』は『彌太郎』あっての『三菱』である。
『三菱』の解剖が『彌太郎』の解剖に終始するのも止むを得ない。

         

 

 

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