ペリーから教えられた白旗の意味

 

 

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)
ペリーの率いる、アメリカの四せきの軍艦が、浦賀(神奈川県横須賀市)の沖に現れました。

ペリー

ペリーはこの時、アメリカ東インド艦隊司令官でした。

ペリーは、友好と貿易を求める大統領の手紙を持て、幕府に強く開国をせまりました。実は、この時ペリーが幕府に渡したのは、大統領の手紙だけではありませんでした。

いよいよ日米双方が面会をするというその日、奉行所の役人がアメリカから渡された箱を開けてみると、中に二本の白旗があり、一通の手紙が添えられていました。その手紙には次の様な事が書かれていました。

「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理に背き、その罪は大きい。通商を開くことをあくまで承知しないならば、われわれは武力によってその罪をただす。

日本も国法をたてに防戦するがよい。戦争になればこちらが勝つのは決まっている。降伏するときは贈っておいた白旗を押し立てよ、そうしたら、アメリカは砲撃をやめ和睦することにしよう」

実際、ペリー艦隊はすでに砲門を陸に向けていつでも火を吹ける様に準備していました。

結局、こののち日本は、関税の額や、割合を独自に決める事も出来ず、外国人の犯罪を日本側
で裁く事も出来ない不平等な条約を欧米諸国と結ばざるを得ませんでした。

武力を背景に弱い国を脅して請求をのませたペリーのやり方は乱暴極まりない事です。しかし、このような「砲艦外交」はアメリカだけがやっていたのではありません。弱肉強食は、当時の国際社会の掟とも云えるものでした。

日本が武力によって屈服させれたことは、当時の日本人、とりわけ誇り高い武士たちにとっては屈辱的な事でした。日本の指導者たちは、当時の国際社会の掟を日本も受け入れて、いかに不平等であろうとも忠実に守りました。そうせざるを得なかったのです。

しかし、西洋の文明を取り入れて豊かな強い国にした上で、あくまで交渉によって条約を改正しようと考えました。こうして起こったのが明治維新であり、その後の新しい国造りでした。

ところで、日本では白旗は源氏の旗でした。そのなごりは今でも学校の運動会にみられます。白旗が降伏のサインであることを日本人はペリー来航の時、初めて知ったのです。それから約90年後、日本はアメリカと激しい戦争をして負けました。

だから、アメリカの歴史教科書の中には「日本は二度降伏した」と書いてあるものがあります。

 

『泰平の 眠りを覚ます蒸気船 たった四杯で  夜も眠れず』

当時の狂歌です。幕府の狼狽ぶりを皮肉った歌です。

ペリー

☆蒸気船=(上)喜撰
当時流行ったお茶のブランド名、上はその上等なもの。

4杯=以下の4隻
「サスケハナ号」(旗船)・・・2450トン 巨大蒸気戦艦
「ミシシッピー号」・・・蒸気船
「プリマス号」・・・スループ帆船
「サラトガ号」・・・スループ帆船

艦隊は、日本側からの万が一の砲撃に備えて、臨戦態勢を取っていました。

☆ 右の絵画は、翌年再び横浜に来港した時の様子

 

この旗船には紀行作家のベイヤード・テイラーが同乗していました。
彼の記録は『インド・支那・日本-旅の記録』として出版されています。

彼はその中で、
「乗員はみな興奮していた。私たちは今、交易もなく国交もない辺境の国に旅立つ。外に向かってぴったりとドアを締め切った不思議な国日本。私たちはその閉ざされた扉をこじ開けようとしているのだ」

そして目の前に現れた、相模湾沿岸を見て
「絵のように美しい・・そこには緑濃い木々、耕された畑が広がっていた・・・」

「入り江の奥の方からきれいな川が流れ込んでいた。川の両岸は民家があり、果樹の植えられた庭が広がっていた。彼ら(船員)を見つけると老いも若きも男も女も川岸に集まってきた。親しげに近寄ってきた人々は手に手に冷たい水や熟れた桃を持ち歓迎してくれた」

・・・幕府の役人たちとは違い、庶民(平民)は、意外と平静だったのですね。

ペリーは、退去するにあたり、翌年はさらに大艦隊を率いて再来することを予告しています。 徳川幕府は、江戸湾を囲む伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房の6カ国を中心に、全国の大名に命じて、総勢46万8,970人の兵力を動員して防御を固めていたようです。

☆京都外国語大学付属図書館>「ペリーがやって来た、黒船来航と日本」他、参考。

 

 

このページのトップページはこちらへ

 

 

©copyright Fusiginasekai. All rights reserved.