西郷隆盛の顔

写真判定と情報を基に解明に挑む

何故に隠さなければならなかったのか?

 

◇明治時代に遡って西郷さんを探してみました◇

右から→維新柱石雷名十勇士伝 大久保常吉 編[他]  西郷軍〇率イテ城山二陣ス
中央→ル・モンド速報記事に描かれたその姿(英語版wiki・1877年)
左→官軍と西郷軍の激突を描いた浮世絵。中央に西郷隆盛が描かれている。(wiki)

名十勇士伝 名十勇士伝 名十勇士伝

西南戦争の場面ですが、どれを見ても、誰もが知っているあの恰幅の良い西郷さんは居ないですね。

一番右の西郷さんは、軍服を着ていますが、本の中の挿絵ですので、実際の場面を見ていない人が描いたのだと想像します。軍服姿の西郷さんを実際に見たか聞いたかして描いたのだと思います。西郷さんの長身は遺品の軍服から推定しても180センチ位はあっただろうと云われています。真ん中に立っている長身の人が西郷さんでしょう。

奥さんの糸子さんが上野に銅像が建てられた時、それを見て「うちの人はこんな人じゃない!」と云われたそうです。

それから後日と云っても亡くなってから60年後ですが、故郷の鹿児島にも銅像が建てられましたが、この挿絵の様な軍服姿をしています。もし、西郷夫人が生きていらっしゃられたなら、今度は何とおしゃるでしょうか。

 

◇西郷涅槃像◇

名十勇士伝

西郷さんの生れ育った地、鹿児島の県立図書館のHPで見つけました。
全ての・・・馬、犬、鶏、ヘビ・・・西郷さんの死を悲しんでいます。

当時、大勢の人々が西郷さん本人を知っていたのです。

それにも関わらず、実の弟(政府の重鎮)をも含めて、

無理矢理あの『西郷像』を民衆に押し付け、

現在(教科書にも載っている)に至っているのです。

 

 

◇この写真・・・・イタリア人技師、キヨソーネ(政府のお抱え絵師)が描いた肖像画です◇

偽西郷隆 左=弟(従道)
右=大山巌(従兄弟)

 

この二人を
合成したモンタージュ
西郷従道 大山巌

銅像は高村光雲の作ですが、彼は本人を知らない。 西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていないため、
光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にしたそうです。

 

◇西郷さんには永山弥一郎と云う影武者がいました◇

偽西郷隆 西郷どんは
この人に似ているのです。

右の肖像は、

上野の銅像を創作する際の、
モデルにしたと言う話がありますが、

『西郷隆盛と沖永良部島』
と言う本の挿絵になっています。
元の絵は、掛け軸から取ったようです。

その掛け軸に、
西郷隆盛を証明するものはない。
つまり、どうも西郷さんを
書いた本の挿絵に使われていたからが、
『西郷隆盛の肖像』
だろうと言う根拠のようです。

偽西郷

西郷さんについて書かれている本の中の一節に 『永らくの島籠りに西郷の身体は、衰弱して島から船で行く時歩くに困難であったから、吉井が負ぶってやった程でありました。』と、ありました。
ここでの、島とは『沖永良部島』の事を言っています。この様な巨漢を誰が負ぶえるのでしょうか。

余談ですが、ここに村田新八(同罪で喜界島に流されていた) もいました。まだ許しが出ていなかったのですが、西郷さんが帰りに助けてあげたのです。

 

 

◇島津藩主の弟、久治公とその家臣たち◇

西郷

 一番右に立っている大男の羽織の家紋を、
 クローズアップしてみました。 左は西郷家の紋です。

西郷

 次に耳です。

西郷

 

土佐の豪商・竹村家に伝来する古文書
(松岡司「西郷隆盛高知藩訪問時の一史料」

同記録には西郷の耳の形が「耳筋ほねみぞ(骨溝)これなし、ただもち(餅)を延べたる、此めづらしきみみ(耳)にて御座候」とある。
耳の凹凸が少なく、餅を延ばしたような珍しい耳だったという。

 

どうですか、180センチはあっただろうと云われる西郷隆盛。

英国外交官のアーネスト・サトウが「一外交官の見た明治維新」の中で
「小さいが炯々(けいけい)とした黒い目玉の、たくましい大男」と記しています。

この写真を撮った頃は、先に書いた『沖永良部島』に流され許されて戻って来たばかりの時で、頬が痩せこけています。

 

因みにこちらの紋は

西郷・紋

『明治天皇は深く南洲翁の士気人物を愛給ひ、明治の初年、上の如く16瓣の菊花を中央に 、左右2枚葉を以って相せる紋章を「以後これを家紋とせよ」と下賜されました。』

敬天愛人フォーラムHPより ・・・・・・明治時代以来からの新しい紋なのです。

 

 

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