大室虎之祐明治天皇説

村から消えた少年

田布施町のタブー

 

御子孫、地家康雄氏の証言 より

そもそも、田布施町のタブーについて、
この事(大室寅之祐=タブー)は、うちの爺さんが

「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも 寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」
と言ってた。

田布施町麻郷の古い人間なら誰でもそのことを知っている。

 

分りやすいかなと思いましたので家系図を描かせて頂きました。

名前は、今と違って『コロコロ変わります。』
(戸籍制度が出来たのは、明治以降、それ以前はお寺の過去帳)

明治天皇

 大室家に『南朝系の子孫』と、言う神話があったらしい。 しかし、実際は、そのような証拠など何もない。

母方を調べても、『南朝』に、繋がる証拠などない。 母親の『スエ』は、離婚してのち、 再婚(二号)して、『地家』から『大室』に変わり、 連れ子の『虎吉』も弟(庄吉)も、『大室』に変わった。

その『大室家』には、後の伊藤博文らがよく遊びに来ていた。 ある時、『虎吉』が、行方不明になって 村中で大騒ぎになりみんなで探した。

”虎吉は『玉』にされたんだ!”

地元『田布施』では、その事をみんなが(500%)知っている。。。

作蔵が亡くなった時、作蔵の位牌は明治20年柳原愛子(大正天皇の生母)が、

東京から麻郷(田布施)にやってきて葬式の時、位牌を京都へ持って帰った。葬儀は西円寺。

祖父の話によると明治天皇の実の父だから作蔵の痕跡を消すため愛子が 東京から来たらしい。だから、西円寺に作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳 にも作蔵の記載は無い。

スヘの位牌も 柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によると、スヘの法諡は 「謙徳院殿叡仁基大姉居士」最高の法諡らしい。

 

以上、御子孫の証言の大筋を紹介しました。詳しくは こちらへ

※この田布施の話は、書籍にもありますし、ネットを繰れば大勢の方が書いておられます。
youtubeでも見られます。どうぞそちらもご覧下さい。

 

楠木正成像

皇居外苑にそびえ立つ『楠木正成像』は敵の大将。

後醍醐天皇の忠臣、南朝の武将です。

このことを、政府は一体なんと説明するのでしょうか?

「三種の神器を持っていたから」でしょうか?
(後醍醐天皇はこの「三種の神器」を乱発しているんですよ^^)

本来、正統である筈の北朝は、時の権力者、明治天皇(=政府)の鶴の一声で、

歴史の書き換えが行なわれました。(その書き換えられた歴史が正史として教科書に載っています)

 

さて、『玉』にされた少年・・・

 

ざっと時代を振り返ってみます。

源平の合戦で、平氏が滅び、幼い安徳天皇は抱かれて壇ノ浦の急流に身を投げた。
(その後も生き延びていたと云う説もあります)

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が乱を起こし北条氏と戦い敗れる。。。承久の乱と云う。

その後、後醍醐天皇(正流の邦良親王が幼少の為に、その中継ぎ的存在として即位した叔父)
京都の南方、吉野付近を転々としていた所以で南朝と呼ばれている。兵を起し鎌倉幕府と戦うが敗れる。

 

天皇族は幕府と天下の覇権を争って敗れ、天皇天下の時代はここで終わったのです。
中国に例えると、殷・周・秦・漢・・・と時代が変わったのと同様に、時代は武家の世の中になって行きます。

その昔、大陸での戦乱で敗れた人々の一部が、時代ごとに隣の日本へ逃れて来て、国を開きました。
天皇族もこの中の一部です。着物の事を『呉服』とも云いますが、『(今の中国)呉の国の服』ですね。

日本は、隣の韓国、中国とは切っても切れない間柄なのです。

 

『玉』=『神』として崇め祭って、利用しようと郷士等が革命を起こしたのです。

しかも、「南朝が正統』として団結した様で、その為、『大室虎之祐』は受け入れられたのでしょう。

 

その時の集まりではなかったのかと云われているのが、『フルベッキ写真』なのです⇒準備中

『大室虎之祐説』が、広く世間に受け入れられている理由とは⇒準備中

  

 

 

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